「私は嘘つきだ」はパラドックスか?(--;)

この本は、かめ吉が最近読んだものの中で一番面白かったんですが、パラドックスの例として「私は嘘つきだ」が出ていたのには、少々がっかりしました。

これは確かにパラドックスの例として良く出ているんですが、これだけよく書けている本の作者だったら、ちょっと考えて欲しかったです。

つらつら考えるに、ある人を「嘘つき」と呼ぶときは、2種類あります。

一つは、まさに嘘をついている時にそう呼びます。「状態」を表しているわけです。この場合は確かにパラドックスになります。

もう一方は、嘘をつくことが多い人に使います。人を「分類」しているわけです。「あの人は嘘つきだよね」という言い方などが例でしょう。

人を嘘に関して分類すると、3つに分けることが出来ます。ア:常に嘘をつく人、イ常に正直な人、ウ:時と場合によりけりな人です。

ここで「嘘つき」はどの人たちかとなるのですが、一番厳格なのがアのみの場合で、一番広い解釈がア+ウでしょう。

アのみの場合は、ウに属する人、すなわち「嘘つき」に属さない人が「私は嘘つきだ」と嘘を言ったわけです。

ア+ウの場合は、ウに属する人、すなわち「嘘つき」が「私は嘘つきだ」と正直に言ったわけです。

というわけで「嘘つき」を「分類」として使うなら、パラドックスにならないのです。

件の本では、「嘘つきが多いことで有名は某所の出身である某氏が「私は嘘つきだ」と主張した。これはパラドックスである」という出方をしています。

かめ吉には「分類」として「嘘つき」を使っているように思うのですが、如何ですか?

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