サイボーグについて(ネタバレ注意!)
アイザック・アシモフのSFが好きな人は、「サイボーグ」には「人格」があるか否かで悩んでいると思う。たぶん、「人間」扱いしたいと思っている人が多いと思う。
彼らは愛する「ヒト」を持っても、「寿命」が違うので必ず相手を看取らなければならないという宿命を抱える。とても悲しいことだ。
これに同情してむしろ「サイボーグ」に肩入れしたい気持ちを持つ人もいるだろう。かめ吉のその口かも。
「僕の彼女はサイボーグ」では、最後のシーンで「僕」は「サイボーグの彼女」を失うが、「ヒトの彼女」を得る。かめ吉には「サイボーグの彼女」が哀れでならない。
「サイボーグの彼女」を愛した「僕」は「サイボーグの彼女」に「人格」を感じていたはずだ。「ヒトの彼女」が実は「サイボーグの彼女」のモデルであったとしても、別の「人格」だ。
その別の「人格」を「僕」は受け入れることが出来るのだろうか?
もちろん、この映画は受け入れられることを前提に作られていると思うが、悲しい。
TV版の「攻殻機動隊」ではA.I.で「人格・個性」を持った「タチコマ」は、自分達がこの世から消滅してしまうことを認識しながら、「ヒト」の仲間を守るために、決死の行動をとる。
これに感動してしまうかめ吉にとっては、「ヒトの彼女」が登場したことで、残骸となってしまった「サイボーグの彼女」がとても哀れ。